Un gato lo vio −猫は見た

映画やらスポーツやら小説やら、あれやこれや。
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ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ

優れた小説には優れた才能が必要なことはもちろんですが、優秀な編集者の存在も不可欠。
実際にどのような作業を行っているのか興味を引かれて映画館へ。

ところが、トマス・ウルフは人の痛みが分からない半人前として描かれていました。才能を信じて全てをなげうった妻のささやかな願いを退け、不遇を託ったフィッツジェラルドに容赦のない批判(いやがらせ)を浴びせる。そして、自分を世に送り出してくれたマックス・パーキンズにさえ手柄を横取りしようとしていると不信感を抱くのです。

他人の気持ちを忖度できない人が優れた小説を書けるということに驚いてしまいました。共感する能力に欠けながら登場人物の心理を描写できるものなのか? 普通は無理ですよね。天才(原題)故の技なのでしょう。優れた作品を世に送り出してくれれば作家の素顔など気に留めない質ですが、こればかりは頭の中に「?」マークが点滅を続けるのでした。

取り上げるエピソードをもう少し絞り込んで深掘りしてくれたら、もっと印象に残ったのかなとも思います。ウルフがマックスに不信感を覚える理由が映像からはよく分からないし、決定的な対立もない。ウルフの創作の苦しみすら全く描かれず、やんちゃな悪ガキに手を焼いていたみなさん大変でしたね、という感じで終わってしまいました。主役クラスの3人の俳優が良い仕事をしていただけに少々残念。

「グレート・ギャツビイ」のフィッツジェラルドはナイーブな、そして几帳面な人物に描かれていました。金銭感覚に乏しい浮き世離れした人だと思っていたけど、映画の中では常識人。なるほどねえ。

 

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ゴールドフィンチ ドナ・タート

せっかくサインまでもらったのに、あまりの分厚さ(弁当箱よりでかい!)に怯んでしまい、数年来積ん読状態だった「The Goldfinch」。翻訳も出てしまったことだし、ここらでいっちょう読んでみるかと手に取ったところ…


止まらない、止まらない!  前評判通りのおもしろさに毎週末は外出もままならず。1カ月以上首までドナ・タートの世界に浸かりきりでした。

ニューヨークの美術館で爆破事件に巻き込まれたテオ。母を失い、ファブリティウスの名作「ゴールドフィンチ」を持ち出してしまったことを振り出しに、想像もしなかった人生を歩むことになります。

テオを取りまく人々の中でとりわけ印象的だったのは、彼を父のように見守る家具職人のホビーと、トラブルの匂いを紛々とまき散らす、けれど無二の友人ボリスです。ホビーは善という価値を体現するような聡明さと落ち着きでテオをつなぎ止め、一方のボリスは軽いのりでテオを縦横無尽に厄災の世界へ誘います。

おもしろいのは、このあやしいボリス君が聡明な人生観を持っていること。世の中は白黒をはっきりつけられものではないし、正しい行いが良い結果を、誤った行いが悪い結果を導くものではない、だから四角四面に考える必要はないと考えています。いちばん好きな人と一緒になるのは地獄だという異性観なんて、まるで人生を達観した親爺のようです。

ああ、それにしても、この大作の感想を手短にまとめることは至難の業。逆に言えば、焦点の当て方によってさまざまに楽しむことが可能なので、しばらくはこの物語の話題で何度も酒を飲めそうです。一緒に盛り上がれる人がはやく現れてほしい!

 

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デトロイト美術館展

この冬の東京はおもしろそうな美術展が多く、特に上野はすごいことになっています。あれも見たいこれも見たいと悩みつつも、混雑は嫌、ということで、今回は比較的落ち着いて鑑賞できそうな「デトロイト美術館展」に足を向けました。

いやいや、予想していたより充実のラインナップ。展示されている作品は巨匠の代表作ばかりで、さまざまな媒体でお馴染みのもの。豪華幕の内弁当を手にしたような喜びが湧き上がってくるのでした。デトロイトが自動車で繁栄していたおかげで、これだけの作品を収集できたのですね。

圧倒されたのはピカソの時代別代表作。中でも「読書する女性」と「座る女性」が発するパワーは凄まじかった。ライブコンサートでは音が実態あるものとして押し寄せてきますが、この2点も同様でした。この絵画を創作した作家の強烈な意志がまだそこに留まっていて、それが鑑賞者に放射されている、そんな感じなのです。目にした瞬間に引き込まれてしまいます。でも、対峙するにはそれなりの力が必要なのでした。

好き嫌い、あるいは実際に手元に置きたいか否かという問題は別。己の想像の範囲を超えた荘厳な力の前に、ただただひれ伏すほかに術はなかった。こんなの初めての体験です。

まあ、それはそれとして、自宅に飾るならドガかルノワールが好いなあ。

 

公式サイトはこちら

 

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つゆのあとさき 荷風とさだまさし

「一人歩きを始める 今日は君の卒業式
 僕の扉を開けて すこしだけ涙をちらして」

と始まるさだまさしの「つゆのあとさき」
2人がどのような関係なのか、さまざまな可能性があり、この曲を知っている人たちとあれこれ想像し合ったものです。

今回永井荷風の同名の小説を読んで、さだまさしの歌詞がどのような状況を示しているのか、1つの手がかりを得たような気がします。

小説の舞台は昭和初期。カフェーで女給として働く君江の奔放な生活と、女性を軽く見ている男達の軽薄な生活をのぞき見するような筋立てです。

君江は何しろ刹那的。17歳で上京してからというもの、男を次から次へと変える享楽的な生活を送り続け、それを良しとする態度なのです。特定の男と落ち着いた関係はあり得ません。
新進作家の清岡は妻を追い出し、自分の女だと自負している君江に商売でもやらせようという魂胆を持っていますが、貞操観念のない君江は場当たり的に出会う男たちと関係を持ち続けるばかり。

この小説を踏まえ、そのタイトルを拝借したさだまさしの歌に戻ってみると、やはり男女の別れの歌なのだと思いました。浮気な女性とあきらめきれない男の別れの場面。

新しい恋人を見つけた彼女から別れの言葉を告げられる前に、僕は自ら「さよならと書いた卒業証書」を渡そうとしたのだと思います。ぼくが切り出したのだから、君はやましさを感じる必要などない。僕は君の全てを受け入れるという強がり。

でも、二股を掛けた負い目を持つ彼女は「ごめんなさい わすれないと」と言い、「息を止めて 次の言葉を探し」ながら、「悲しい仔犬の様に ふるえる瞳をふせた」のではないでしょうか。

修羅場になりそうな別れの情景を美しい物語へと昇華させたさだまさしの才能に改めて脱帽。そして、女給たちの赤裸々な姿を描き出せるほど彼女たちに溶け込んでいた(という)永井荷風の洒脱な生き方にも畏敬の念を覚えるのでした。

 

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