Un gato lo vio −猫は見た

映画やらスポーツやら小説やら、あれやこれや。
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フェルメールになれなかった男



「青衣の女」を思わせるこの表紙絵、どこか心を揺さぶられるところがありますか? 作者は気になりますか?

絵画の才能に恵まれ、若い頃に成功を収めたハン・ファン・メーヘレン君。ところが自分を評価してくれた著名な批評家の美しい妻を寝取ったことで業界から疎んじられ、作品を扱ってもらえないことに。

ハンはそこで世間を逆恨み。なんと、当時オランダ最高の作家と再評価され、作品数が少ないフェルメールの贋作作りを目指してしまうのです。
批評家連中が自分の贋作を真作と評価し、それが美術館に飾られることになれば、その時こそ真実を明かして、自分を葬った美術界に復讐するのだ…

「復讐って、君、自業自得でしょうが」と突っ込みたくなりますが、この20世紀最大の贋作事件を扱ったノンフィクションの訴えたいことはハンの人格ではなく、美術に対する人々の接し方です。
作品本位ではなく、著名作家の作品だから評価されるという風潮はあらゆる場所に蔓延。ハンの復讐は、そんな美術界を取り巻く世間や専門家の態度に一石を投じる結果となりました。

贋作だと分かった後も購入した作品を手放そうとしない人や、本物だと主張し続ける専門家がいたことはいっそう興味深いものがあります(「エマオの食事」は非常に評価が高く、贋作と判明した後もハン・ファン・メーヘレン作品として美術館が所蔵)。

そして、世界中の美術館やコレクターが実は膨大な数の贋作を所有しているという事実に驚いています。関係者の間には「そんなの常識」という共通認識があることもびっくりです。

私はこの作品が好きなのだろうか、それとも描いた作家が好きなのだろうか。次に展覧会を訪れた際は、自分自身にそう問いかけることになりそうです。
美術作品に向き合う態度を考え直させられるという点で、非常に印象的な一冊でした。
 
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蜩ノ記



ささいなことから刃傷沙汰に及び、切腹の代わりに幽閉中の元郡奉行、戸田秋谷を監視するよう命じられた壇野庄三郎。秋谷は藩主の側室と密通したとして切腹を定められており、その期限は藩の家史編纂後。しかし、秋谷の清廉な人柄に感じ入った庄三郎は彼を救う手立てを求め、やがて思いもよらぬ決断を下すことに。

正直なところ、ラスト100ページまではただ普通に良くできた小説、という感想でした。保身を図るために策を弄する悪役家老と正義を貫くがゆえに不遇の元奉行。清廉な人物に傾倒する青年と無垢な少年を襲う悲劇。
うん、確かに面白いけど、ステレオタイプかなあ、なんて思っていたら、意表を突かれる展開が待っていました。さすが、直木賞受賞作です。

まちがいなく優れた作品だし、ここに描かれる世界観には素直に賛同できるのですが、危険な読み方も可能だということに恐ろしさも感じています。
というのは、秋谷の幼い息子、郁太郎に接した庄三郎の心の変化です。

郁太郎は秘密を暴かれたくない家老の手下によって責め殺された友人源吉の仇をとろうと、なんと家老の屋敷に乗り込もうとするのです。そしてその姿を目にした庄三郎は「ひとは心の目指すところに向かって生きているのだ、それが果たされるのであれば命を絶たれることも恐ろしくはない」と自らも決断を下す……

この感じ方が間違った方向から導かれたら、例えば「自爆テロ」という行為に走ってしまうのではないでしょうか。これは極端な例かもしれませんが、己が正義と信じたことに命を捧げるという精神構造は同じ種類に思えるのです。

正義の定義も価値観が違えば異なるもの。家老の正義は秋谷、庄三郎、読者にとって保身のための言い訳にしか映りませんが、秋谷らの正義は家老にとって藩を潰す愚かな考えにしかすぎないのです。

多様な価値観を想像しろと言われるなんて、まったく想像外の展開でした。

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白鯨



古典中の古典の1つとしてタイトルだけは知っていた「白鯨」。エイハブ船長だのモビー・ディックだのという固有名詞も知ってたけど、映画で見たらあまりにどひゃーなお話でびっくり。若干のチープ感がただよう驚きのラストシーン(本当に2010年制作?)にも口があんぐりでした。

見所の1つは、エイハブ船長の狂気。
この人は自分の片足をちぎった白鯨憎しと、ただ復讐に向かって猛進するのではないのです。あくまでも商業捕鯨でお金も儲けるから、憎き鯨を見つけたときは協力してね、というスタンスで船員を集めておきながら、徐々に人心を把握して自分の私闘のために彼らを巻き込んでしまうのです。

その過程は実に見事であり、同時に空恐ろしさを感じさせるのでした。その場にいたら私だって「モビー・ディックを殺せ!」と叫び、あえなく海の藻屑と消えたでしょう。自然さえも制御できると愚かしいことを信じた人間に対する報いですね。

もうひとつ見せてくれたのは敬虔なキリスト教徒である一等航海士スターバックの苦悩。
彼は船長の狂気に気づいています。エイハブの意のままに航海しては乗組員の安全が保証できない、しかし敬愛する人物の尊厳は傷つけたくない。そして妥協点を探しきれないままに下した苦渋の決断。
これを実行できなかったことが悲劇の最終的な引き金となります。
助かる道を捨てて自ら海に沈んだのは自責の念なのかもしれません。
 
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ボヴァリー夫人



アーヴィング「ひとりの体で」には、若き主人公が読みふける「ボヴァリー夫人」に恋人が嫉妬するというエピソードが登場します。生身の人間に激しい感情を呼び起こさせるボヴァリー夫人ってどんな人なのだろう、と手に取った次第。

妄想癖のある女を妻にした医師がもろとも破滅に突き進むという、それだけと言えばそれだけのストーリーですが、転落のさまが恐ろしい。

結婚した夫シャルルの退屈さにあきあきしたエンマ。彼女は「男とは何でも知っていてなんでも達者で情熱の力とか生活の技巧とか、あらゆる秘密の手引きをしてくれるものではないだろうか」と男が聞いたら嘆きたくなるような気持ちを抱き始めます。
そして、政界復帰を目指す侯爵のパーティーに招かれ、そのハイソな世界にすっかり参ってしまうことに。

その後、情熱的で美しい相手を求めて不倫の毎日。やがて使い込みが始まり、気がつけば莫大な借金の山。夫も下手な手術で評判を落としてしまい、もはや一家が浮かび上がる瀬はなし。そこであっけなく命を落とすエンマは、まあ、妄想に導かれるままやりたい放題やったわけですから自業自得としても、哀れなのは残されたシャルルと娘。

いや、シャルルも責任がないとは言えませんね。
なにしろ、妻のあやしい態度に気づいても気づかぬ振り。良妻の彼女が自分を裏切るわけがないと盲信したうえ、妻を狙う人物とわざわざ二人きりにしてしまうのですから(それも一度や二度じゃない!)。浮気で美しさを増した妻を愛おしいと思うなんて、君の目は節穴かと突っ込みたくなってしまいますよ。普通、気づくだろうに。

まあ、仮にシャルルが妻の不貞に気づいたところで、一度離れた心は取り戻せないでしょうが、一家一族全員を巻き込む転落からは逃れられたはず。

お人好しもいい加減にしましょう。


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ラビットホール



交通事故で子どもを失ったばかりのベッカとハウイー。共に悲しみを乗り越えようとしながらも2人の思いはすれ違い、傷つけ合う日々。
関係修復の道を探る彼らは、同じような夫婦が集うグループセラピーに参加してみますが、その中の一人が、「子供を失えば全てが激変する。2人の関係はいずれだめになってしまう」とあきらの境地を吐露するのです。

溝が埋まらないままハウイーはセラピー仲間の女性に慰めを感じ、ベッカは息子を轢いた高校生のあとを追い始める……
ああ、彼らは別れるのだなと予感させるのですが、同じく息子を失った経験のあるベッカの母親の述懐によって2人の結びつきは際どく保たれそうな気配。

種類は異なれど、ある種の危機に見舞われながらもそれを乗り越えるカップルと別れてしまうカップルの違いはどこにあるのだろう。
実際、映画の中でもセラピー仲間の1組は関係が破綻してしまうし、私の知る限定的な世間でも別れてしまうケースが多いように感じます。

どちらにも非がなく修復したい気持ちもある、でも分かれる道を選択しまう人たちを見ると切なくなってしまいます。「こんなひどい運命を与える神様はサディストだ」とベッカは罵りますが、全く同感です。

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