Un gato lo vio −猫は見た

映画やらスポーツやら小説やら、あれやこれや。
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敵は海賊・海賊の敵



なんの留保もなく笑い転げる。これは人生の幸せの外せない1つです。
でも、この幸せはいつが最後だったっけ? 数年前の寄席で聞いた権太楼の「代書屋」まで遡るなあ。ああ、あの幸せを感じたい…

なんて思っていたら、来ました、来ました。
神林長平の「敵は海賊」シリーズ最新刊。
もう30年来のおつきあいで、登場人物の性格や行動パターンは完璧に把握。
へたすりゃ、台詞まで予想がつき、うちの黒猫がオスだったらあの名前をもらっていたかもしれないという古なじみ。
もはや古典落語の域に達しています。

さっそくページをめくると、対コンピュータ戦闘を任務とするフリゲート鑑ラジェンドラが記す報告書、という設定からして既にニヤニヤ。
周りに人がいたら気持ち悪がられること間違いないんだけれど、「留保なし」のおもしろさなんだから仕方がない。

そして、可笑しいだけでも幸せなのに、他の神林作品同様、優れたコミュニケーション論としても楽しめるところが偉いんだなあ。

知的好奇心も満足させてくれるこのシリーズがまだまだ続いてくれますように。
そして、神林さん、たまには新潟に帰ってきてくださいね。

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「有元利夫」展



「有元利夫」展最終日になんとか滑り込めました。

私の有元利夫初体験は宮本輝の「青が散る」。
当時、評判だったこの小説を探しに探し抜いた挙げ句、地元の書店でようやく発見。そして手に取ったとき、ジャケットには中世ヨーロッパ風の衣装をまとった人物が青緑の空高くに浮かんでいるという不思議な絵が。すっかり魅入られてしまったことを思い出します。

その後も宮本輝の新刊には独特な静けさをたたえた有元さんの作品が用いられ、物語とどこかで通じ合うものがあったため、内容に合わせて制作しているのだとばかり思っていたものです。

久しぶりにまとまった数の作品と向き合ってみると、こんなに淡い色調だったんだと、驚いてしまいました。
画集や案内類など印刷物がかなり派手な色使いになっていることと、記憶の曖昧さにがっかり。
まあ、だからこそ、実物との対面が楽しいわけでもありますが。


ところで、今回作品そのものではなく、作品を飾るフレームがものすごく気になってしまった。
実は、展示されていたほぼ全てのフレームは虫食いのような穴が無数に空いていたり、角が欠けていたりするのです。「楽典」という2号ほどの小品を飾っていたフレームに至っては旧家の蔵の奥でネズミにかじられていたのでは思うほどボロボロ。

これ、意図的なものなんだろうな。
特に虫食いのような穴は、水平方向の左上部と垂直方向の右下に集中しています。
とても偶然とは思えない。
「欠けたものにこそ力強さが宿る」旨の言葉が紹介されていたし。

うーん、そのせいで途中から絵画に集中できなくなったことが残念でした。
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昨日・今日・明日



マストロヤンニとソフィア・ローレンが3つのカップルを演じ分けるラブコメディのオムニバス。
二枚目なのに冴えない男をやらせたら天下一品のマストロヤンニ。
この映画でも情けない役どころがナイスでした。

そして、対照的にローレンのたくましいことといったらありません。
「ナポリのアデリーナ」ではまさにイタリア版きもったま母さんです。

アデリーナは失業中の復員兵である夫カルミネに代わって闇たばこ売りで生計を立てていたのですが、罰金未払いで投獄されることに。
しかし、妊婦の不逮捕特権を知るや、夫に子作りを要求。
次から次へと子供を作り続け、気がつけばその数7人!
夫は連夜の「お仕事」にふらふらですが、アデリーナは一層たくましく、そして美しくなるばかりなのでした。

いやあ、イタリアの男にはご同情申し上げます、本当に。
女性と見るや律儀に声を掛けて褒めそやさなければいけないし、うまくいったらいったで今度は尻に敷かれるなんて、お気の毒としか言いようがありません。
日本人でよかった、本当に。
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馬を盗みに



タイトルとジャケット写真に参ってしまった。
どうしてもこの雰囲気には抵抗できない。
コーマック・マッカーシーの「すべての美しい馬」もそうでした。

老境をひとり静かに過ごすため、ノルウエイの片田舎に引っ込んだトロンド。
近所に暮らす同じく一人暮らしの男は偶然にも少年時代の知り合いでした。懐かしい邂逅がトロンドに若き日々を思い出させ、そこから現在のエピソードと回想が交互に語られていきます。

トロンドが父親と二人きりで過ごした田舎の夏休みは最高の体験でした。
オスロにいるときよりも頼もしく快活な父親。美しい自然。少し年上の不思議な友人。
少年にとって理想的な夏だったはず。

それなのに、その間の出来事はすべて、父親が家族を捨て去る準備だった……
夏休みが終わってオスロに戻るや、父親の不在が続くようになり、残された家族は不穏な予感を感じないわけにはいかないのでした。

捨てられると予感する一家の様子は辛いものがあります。
それでも、著者は最後に救われるようなエピソードを用意してくれました。
父親が残した僅かばかりの慰謝料を受け取りにスウエーデンの銀行へ向かった母子。ところがノルウエイに持ち帰れないことが分かり、使い途を思案した母親はそのお金で青年期を迎えたトロンドのスーツを買うことにしたのです。そして2人が恋人同士のように腕を組んで異国の街を歩くシーンは美しい。

愚鈍な女にしか見えなかった母親が、生き生きとした姿を見せることにトロンドはある種の感慨を持ちます。その後、彼女は二度と快活な姿を見せることはないのですが、おそらく彼はその美しい光景を忘れない。
トロンドが失意のひとり暮らしを決意できたのは、きっと心の薄闇を灯すその美しい思い出があればこそなのだと想像するのでした。
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