Un gato lo vio −猫は見た

映画やらスポーツやら小説やら、あれやこれや。
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ミュリエルの結婚



ABBAって本当にオーストラリアでは大人気だったんですね。
オーストラリアのヒットチャートで洋楽に興味を持つという、珍しい目覚め方の私には、全編ABBAが流れたというだけで充分この映画を楽しめました。

主人公のミュリエルは「時代遅れな」ABBAのファンで仲間に邪険にされるのですが、彼女の部屋のABBAのポスターが妙にセクシーでよかった。

嘘をつきとおして生まれ変わろうとしたミュリエルは、嘘をやめることで唯一の友だちロンダを呼び戻せることになります。
この二人のABBAの真似がまたよく似ていて笑ってしまいました。個人的にはここがハイライト。
メイン二人のキャスティングはABBAのアグネサとアネッタ(うろ覚えですが)に似ているかどうかが決め手だったんだな、きっと(ちなみにロンダは若き日のK.D.ラングも想像させます)。
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ヴィノクロフ!



スポーツを語るときに「根性」ということばを使うことが×になったのは、数十年前の金田正一氏のせいでした。スワローズとジャイアンツでぶっちぎりの勝利を収めた大投手の野球解説は非常に単純明快。「根性」があるかないかなのでした。でも、それではちっとも解説になっていない!という非難が彼を解説の現場から遠ざけました。
時を同じくしてスポーツの現場ではナブラチロワらが取り入れた科学的トレーニングが大流行。水は飲むべきものになったし、うさぎとびはしてはいけないものになったのです。そして根性でスポーツは強くならない、という常識が20世紀末に確立したのでした。

しかし、しかし、やっぱりスポーツは根性だ!
昨日のヴィノクロフはなんですか!
両膝を縫う大けが→奇跡のタイムトライアル→失意の30分遅れ→根性のアタック!
あり得ない。
普通ならとっくにリタイアですよ。表彰式で歩くのさえままならない人が、ピレネーの急勾配でアタック。肉体を支えるのは精神なんだとつくづく思いました。メンタル・トレーニングなどという領域を遙かに超えた心の強さ。
ああ、それなのに、それなのに、勝利を諦めないということばと裏腹の曇ったままの表情。辛い。
諦めるなヴィノクロフ。誰が優勝しようとも、今年のツール・ド・フランスはヴィノのツールとして記憶されるはずです。

そして金やん、ばかにしてすみませんでした。反省してます。いや、認識を新たにしました。
トレーニングを極めつくしたアスリートの勝負はやはり根性なのだ。

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回想のビュイック8




いやはや、キングには毎回ごちそうさまでした、と感謝の気持ちで手を合わせることになります。
ここではないどこかと私たちの世界を結ぶ「ビュイックのような」物体。それは向こうから得体の知れないものを連れてきます。そして、こちらではときおりビュイックの周辺で誰かが失踪してしまう。
物語のおもしろさは言うまでもありませんが、人生の手引き書としても読めるところがキングの人気が衰えない理由でしょう。
ビュイックを巡って非日常的なことが起きているにもかかわらず、それを管理する警察分署の警官たちは、きわめて日常的に対処します。彼らが学ぶのは、あらゆる出来事が解明できるわけではないこと、自分が目に見えない鎖にどこかでつながれていること、私たちの暮らしはアンチ・クライマックスであること。
世界が解明されうるものであると信じ、知る権利があると思いこめるのは若者の特権です。ネッドはそんな若者として描かれますが、大学を中退して死んだ父親と同じ分署で警官として働くことになります。やがてアンチ・クライマックスな生活を受け入れていくことになるのでしょう。

ひとつだけ文句を言わせてください。分署のアイドル、ミスター・ディロンのことです。あれほど忠実な犬に「毒を盛る」のはひどい。物語の展開上、とても重要なシーンですが、別な結末を用意してあげても小説が損なわれることはなかったのに…
まあ、キングはミスター・Dを署員の心に愛すべき思い出、善の象徴として残し続けてくれたのだから、『海辺のカフカ』の不必要とも思える猫殺しに比べればまだ救われますが。
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ベティ・サイズモア



挿入歌の一つ、それからエンドロールに「ケ・セラ・セラ」が流れますが、まさしく「先のことなど分からない」ですよね。夫が殺される場面を目撃してしまい、大好きなメロドラマの世界に逃避してしまったベティですが、それが結果的には幼い頃の夢を実現させることになるのですから。
彼女を追う殺し屋親子、彼女のルームメイト、テキサスから追いかけてきた保安官と新聞記者が、緊迫した場面で揃って件のメロドラマに見入るシーン。これが間抜けで笑えます。大笑いではないけれどにっこりと拍手できる素敵なコメディでした。

「ケ・セラ・セラ」が流れるコメディといえば「てるてる家族」が思い出されます。
「なるようになるさ」という歌詞が楽天的なシナリオを産むのでしょうかねえ。
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タクシードライバー



ベツイはまずいですよ。
少女売春婦を救って新聞で英雄扱いされたとしても、トラヴィスに再接近するのはまずい。彼はもともと大統領候補者を殺害しようとたくらんでいたのに見透かされてしまい、一転して売春の元締めであるスポーツたちを殺すことになった。それはたまたま起こったことにすぎないのに、彼女にはそれが分からない…

トラヴィスは精神を病んだままでしょう。時の人として崇められたからといって、それが恢復したわけではないのです。原因に同情の余地はあるにしても、いつまた、支離滅裂な行動に走るかわからない怖さを抱えているのです。

その点、アイリスの両親はもっと人を見る目があるようです。トラヴィスに感謝の手紙を送るけれど、「貴方に会いにいくことはできません」と断りを入れているのですから。彼が実は英雄などではなく、狂気をはらんだ人間なのだと感じているのでしょう。

ということで、ベツイさん、トラヴィスに近づくのはやめなさい。
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青に候



志水辰夫が主人公の将来に希望を託して物語を終えてくれた。左平は侍という身分を捨て、想いを寄せてくれる女性と無から再出発することを決意する。
志水辰夫が時代小説を書いたということだけでも興奮するのに、この結末にもおどろかされた。
私は「いまひとたびの」以降の読者で、古いものは「行きずりの街」しか読んだことがない。だからはっきり言えないけれど「ひとたび」以降、作を重ねるごとにやりきれなさが濃く漂ってきたように感じていた。世の中は決して自分の思うとおりにはならない、蟻の一穴なんてことはあり得ない、だからこそ偶然手に入れることできた美しい瞬間を慈しむのだ。たとえすぐに消えてしまうとしても… 
現代を舞台にする限り、行き着くところは絶望しかないのかもしれない。希望を書くために時代小説の枠組みを選んでくれたのなら、こんなに嬉しいことはない。

園子とたえはどちらも男にとっては信じがたいほどの理想の女性だけれど、女性読者はこの二人をどう感じるのだろう?
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