Un gato lo vio −猫は見た

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1973年のピンボール



何度読んだだろうか。最初は二十歳頃だった。
村上ファンを標榜してはばからないくせに、そしてむさぼるように読むくせに、どれもいまひとつ腑におちない。これはその最たるもので、いつも読み終わるたび首をかしげていた。

先日「カフカ賞」の授賞式に出席している村上さんの姿を見たときのこと。
隣は奥さんだな、こういう人なんだ、ふむふむ、と眺めていた。そしてその姿はある人を連想させた。
この人「ミドリ」だ。

とたんに、得心がいった。
奥さんは「ミドリ」だったのだ(どうしてそんな単純なことにきづかなかったのだろう)。ということは「ノルウエイの森」はある種の私小説で、直子のモデルも実在したはずだ。当然「ピンボール」の直子と「ノルウエイ」の直子は同一モデル。
ピンボールマシンと主人公の対話はもちろん直子との対話ということだ。
そこに気づくまで20年。いやはや、ファンの名に値しない読者だ。

そして、どう腑におちたかというと、これは小説の形を取った再出発への決意表明なのだということ。
(おそらく)学生運動の季節に直子が自ら命を絶ったせいで、主人公(著者)はどうしようもなく「失われてしまった」。
そして双子は虚ろな日々を送る主人公を見守り、励ましを送る天使のようなものだった。もしかしたら双子は主人公の心にしか存在していなかったのかもしれない。
ともあれ、双子たちに慰められ一歩を踏み出した彼に今さらながら、励ましの拍手を送りたい。

そうだ、今回も腑におちなかったことが残った。鼠のエピソードはなんだろう。 ジェイとの会話は示唆に満ちたものだけれど、この小説が自分に対する決意表明だとしたら不要だし… 「羊」への伏線ということなのかな?
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1973年のピンボールのこと | 村上春樹は全部読むっ! | 2007/06/01 9:02 AM